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【邪馬台国は大分市】騙され・隠され続けたのは訳があったPart①なぜ「邪馬壱国」は見つからない?

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邪馬台国論争って昔、そうとう流行ったらしいですね。
畿内九州説?という激論が交わされていました。
邪馬台国の場所は現在も断定できていないのが現状です。


魏志倭人伝では、邪馬台国7万戸を有する大都市
親魏倭王」と称された卑弥呼の記載があります。


三国志の世界的大国魏から倭王と称された邪馬台国
なぜ日本の歴史から跡形もなく消えたのでしょうか。
それは日本の皇族にとって触れてはいけない
隠さなければいけないことだったんです...

アイキャッチ引用元:大分市Twitter

【目次】

 

そもそも邪馬台国ではなく「邪馬壱国」

魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝

魏志倭人伝には邪馬台国という記載はありません
正しくは「邪馬壱国」です。


昔の漢字で台は「臺」、壱は「壹」
この2字は似ていることから、壱は台の誤字だ!という
一部の学術から広まって一般に邪馬台国となったようです。

 

魏志倭人伝の作者「陳寿」が書いた原本は存在せず、写本だけが現存します。
忠実に写本された魏志倭人伝で誤写があったのでしょうか。
ちなみに魏志倭人伝はものすごく長い文章ですが、
壱を台と誤写している箇所などないのです。

 

陳寿は「邪馬壱(壹)国」と記述していたと考えるべきでしょう。
この漢字を通常通り読んだら「やまいこく」と読めます。
ですから「やまたいこく」ではなく「やまいこく(やまいちこく)」が正しいです。

 

なぜこうも無理やり邪馬壱国を邪馬台国としたのか。
またそれが一般的に広まってしまったのか。
なんだかヤマト政権と邪馬台国がごっちゃになってしまいません?
実は邪馬壱国ではいけない理由があったんです...

 

ヤマト政権は邪馬台国ではない

引用:ヤマト王権ウィキペディア

ヤマト政権と邪馬台国全くの別物です。


ヤマト政権は奈良盆地に王朝を築き日本を統一したとされる、今の天皇家に脈々と受け継がれる国家です。
一方邪馬台国は3世紀に女王を擁して統一された独立国で、隣接する敵国「狗奴国」との仲裁を魏に申し入れています。

 

日本の重要歴史書記紀」では3世紀には天皇家国家統一しています。
ヤマト政権が日本を統一しているのであれば、海を渡ってはるばる魏に内乱の仲裁を頼む必要がありません。

 

魏志倭人伝では、3世紀ごろまだ日本では小国同士の争いが絶えず、いわゆる「倭国大乱」の時代だったとされています。
一つの政権で統一されておらず、攻防を繰り返していたといえるでしょう。
中国の正史と記紀では矛盾が生じているようです。

 

邪馬壱国は数ある倭の一国にすぎない

引用元:世界の歴史まっぷ

魏志倭人伝では、漢の時代から倭から100国の朝貢があり、魏にも30国ほど通ずる国があるということが書かれています。
数ある朝貢国の一国が邪馬壱国だったのです。

 

日本は統一されていなかったけど、魏の皇帝に海を越えて使者が赴き、奴隷や財宝をたらふく貢いだことで、「倭王」の称号を与えられただけだったんじゃないでしょうか。
魏に忠義のある倭王というだけで、日本の統一国家としての倭王ではないです。
魏も結局滅んでしまったので、親魏倭王とはなんの肩書にもなりませんでした。

 

女王が鬼道を用いて国を治め、中国の正史にも登場する邪馬壱国。

それは神格化されて、いかにも神秘の大国と感じている方も多いですが、魏まで出向いて助けを求め、媚びへつらう卑しい国が邪馬壱国です。

 

邪馬台国、いや邪馬壱国に直接つながる遺跡や女王卑弥呼の墓は
見つかっていますか?何一つ見つかっていません。
魏から倭王と称された邪馬壱国ですが、跡形もなく消え去ってしまう。そんな日本の一地方国だったのではないでしょうか。

 

九州説しかありえない【邪馬壱国は大分市

(写真:大分市庄の原 蓬莱山古墳)

 

邪馬壱国は畿内ではなく、九州の大分市です。
ウソでも本当でもなく大分市です。私は信じています。
場所は決まっていないので、個人で断言しても問題ありません

 

畿内説はありえない

まずは魏志倭人伝の邪馬壱国までの道程の説明で
方角、日数、行程の全てにおいて畿内には行きつきません。
「南は東のこと」「里数が違う」とか魏志倭人伝をまるで信用していない考えです。
どうしても邪馬台=ヤマトと結び付けたいのでしょう。

 

魏志倭人伝は邪馬壱国までの道のりを正確に記載しています!
朝鮮半島から対馬壱岐に至るまで正確に記載されており、九州北部の末廬国に到着して邪馬壱国までの道のりが始まります。

 

壱岐対馬までは魏志倭人伝でわかるとして、あとの道のりの解明は困難を極めます。
それは現在の地名とは結び付けがたい国名が羅列されており、途中の場所を比定するのが難しいからです。

 

【末廬国から邪馬壱国まで】

末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬壱国

 

この難解な行程の解説は長くなるので割愛しますが、九州北部から南東方向へ進んでいるのは間違いありません。

 

邪馬壱国が大分市である所以

では魏志倭人伝の邪馬壱国の地理的条件を見てみましょう。

「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆倭種なり」
「七万余戸ばかりあり」


実は九州でこの条件を満たすところは大分市のみなんです。

引用:Googleマップ

この二つの条件から邪馬壱国についてわかること


東海岸に面している
東の海を渡ると、倭人の国がある
七万戸以上ある開けた場所

 

九州の東海岸で、東に海を渡ると日本人の国がある。

3世紀に七万戸の都市ということは、今でも大きな都市であるでしょう。

九州の東海岸にある大分市は、東に四国があり、現在47万人規模の都市です。

 

今の宮崎、日向国邪馬台国候補地ですが、東の海に倭人の国はありません。

まとめ【邪馬壱国は大分市魏志倭人伝は正確だった

 

  • 邪馬台国ではなく正しくは邪馬壱国
  • ヤマト政権=邪馬台国ではない
  • 邪馬壱国は魏に朝貢する一国にすぎない
  • 邪馬壱国は九州にしか存在しない
  • 地理的条件をクリアするのは大分市のみ

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