邪馬台国(邪馬壱国)は、魏志倭人伝を読み解くと大分市であることがわかります。
しかしなぜこの現代までに、邪馬台国への道をたどるのがこれほど困難になったのでしょうか。
それは国家権力によって改ざん・証拠隠滅がなされ、邪馬壱国(大分市)が破壊されたからです。
真実を突き止めるのがタブー化されたような状態になっていますが、本当の歴史を解き明かします。
アイキャッチ画像:十文字原はら別府湾を望む(筆者撮影)
- 邪馬壱国の宿敵「狗奴国」はどこ?
- 狗奴国に徹底的に滅ぼされた邪馬壱国
- 邪馬壱国を何が何でも隠さなければいけなかった
- 架空の国「熊襲国」討伐過程での地名の大幅変更
- 「やまい」は「おおいた」に変更された?
- 記録からも記憶からも消し去られた都市邪馬壱国のロマン
邪馬壱国の宿敵「狗奴国」はどこ?
邪馬壱国が大分市であるならば、狗奴国は宮崎から鹿児島近辺となります。
女王国(邪馬壱国)の南に狗奴国あり。男を王とし、名は狗古智卑狗という。女王に属さず。
7万戸の大都市で親魏倭王と称された卑弥呼の国、邪馬壱国にたびたび侵攻してくるという狗奴国は大きな都市といえるでしょう。
現在の約40万都市の宮崎市(日向国)を狗奴国として比定します。
日向国といえば、天孫降臨の地、天皇家発祥の地として有名ですね。
神武天皇が日向国を発して本州に攻め上り、大和平野にてヤマト王権を築いたというのは史実として認められるでしょう。(神武東征)
ただし記紀では神武東征は紀元前になされたこととされており、魏志倭人伝の3世紀倭国の模様とは裏腹に、倭国はヤマト朝廷によって統一されていることになっています。
7世紀に世に出た記紀よりも、3世紀に書かれた中国正史の魏志倭人伝を信じることとしましょう。
宮崎市周辺にあったこの狗奴国という国は、天皇家発祥の地と一緒とみていいのではないでしょうか。
3世紀の日本は倭国大乱で国同士の争いが絶えず、狗奴国から一番の障壁である邪馬壱国を攻略できずにいたというのが現状で、神武東征はまだ始まっていないと私は考えます。
狗奴国に徹底的に滅ぼされた邪馬壱国
天皇家の祖である狗奴国は広大な大地を求めて本州を目指しますが、一番の障壁になるのが、国境を接する邪馬壱国です。
日向国から大軍を連れて東征しますが、国に残る人も多くいたはずです。
狗奴国に残った民を守るためには、周辺の国を滅ぼしておかなければ、安心して東征などできませんよね。
そう、神武東征で一番に滅ぼされた国は邪馬壱国です。しかも徹底的に。
「大分市史」によると3世紀に大分市は壊滅的な破壊行為を受けており、青銅器を故意に破壊されるなど、異文化圏からの侵攻があったという記録があります。
卑弥呼が魏に遣使を送り、その次期王女「壱与」も晋へ遣使を送って献身的な姿勢で大陸へ内乱の仲裁を求めていますが、突然ぱったり遣使が止まってしまうんです。
壱与の朝貢も実らずに、この後、狗奴国から邪馬壱国は滅ぼされてしまったのでしょう。
邪馬壱国を何が何でも隠さなければいけなかった
大分市にあった国際都市邪馬壱国は、天皇家の始祖である狗奴国から滅ぼされ、歴史から姿を消しました。
狗奴国の神武天皇(狗古智卑狗か)は東征を見事成功させ、ヤマト朝廷を成立させます。
天皇家発祥からの記録としての記紀は、紀元前には倭国の主君として天皇家が君臨していたと記されていますが、魏志倭人伝との整合性がとれないことが発覚。
記紀と天皇家の権威性を保つためにも、魏志倭人伝に記載されている邪馬壱国の場所を知られてはまずいですよね。
天皇家は魏志倭人伝に記載された国名を徹底的に変更し、後世の人が魏志倭人伝を読んで邪馬壱国にたどりつかないように偽装工作をしていたと考えます。
九州上陸からの邪馬壱国への行程
末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬壱国
国名の漢字や読みを見ても、現在の地名に当てはめることは難しいです。魏志倭人伝に記載されるくらいだから、現在も旧地名の名残をのこしておいても不思議じゃないのに、全くわかりませんよね。
国家プロジェクトによって地名を変えてしまったという証拠ではないでしょうか。
架空の国「熊襲国」討伐過程での地名の大幅変更
記紀では九州南部にあったとされる「熊襲国」が朝貢しないという理由で、天皇家が複数回討伐軍を派遣したとされています。
熊襲国とは一族郎党すべて殺されたと記録されているので、この国が何だったのかを誰もわかりません。ただ同時期に討伐された「蝦夷」は今でもルーツとて記憶と記録に残っています。はたして熊襲という国は本当にあったのでしょうか。(偽装工作?)
熊襲討伐の過程で景行天皇により、むりやりといっていいほど不自然な地名変更がなされています。
佐賀県松浦:その地で釣れたアユが珍しかったので「めずら」とし、なまって「まつうら」となる
福岡県行橋市京:賊討伐のための仮宮を立てたので「みやこ」とする
なぜ旧来あった地名をここで無理やり変えなければいけなかったのかが、魏志倭人伝を解くカギになっているような気がします。
「やまい」は「おおいた」に変更された?
大分の地名の由来は、景行天皇が大分の地に来たとき、「豊かで大きな大地(おほきた)」と称したことにあるそうです。
「おほきた」はいいとして、「おおいた」となり「大分」という漢字が当てはまるのかがわかりません。
大分でおおいたと普通どう考えても読めないですよね。
漢字は5世紀ごろ日本に入ってきたとされていますが、地域によってはもっと前から使われていたのでは?ましてや3世紀の国際都市邪馬壱国は中国に遣使を送るくらいだから漢字が使われていたかもしれません。
邪馬壱国は魏があえて卑しい漢字をあてただけであって、日本の漢字はまた異なります。やまいはどんな漢字だったんでしょうね。
大分の「大」は大和などの「ヤマ」、「分」は位など身分を分ける「イ」で「ヤマイ」とも読めませんか?
そうです普通は「大分」で「やまい」と読むのです。
大分(やまい)という地名の漢字を改ざんしようとしても、どこからかまた古い文献が見つかるかもしれないので、漢字は変えることはできなかった。よって無理やり「おおいた」と国家権力で地名変更したと考えます。
国家権力を行使すれが、一地域の呼び方の変更はたやすいです。また遺跡や古墳の破壊が国家事業として秘密裏で行われたとしたら、跡形もなく邪馬壱国が消え去るもの理解できるのではないでしょうか。
記録からも記憶からも消し去られた都市邪馬壱国のロマン
邪馬壱国が消し去られた理由は理解いただけましたか。
邪馬台国が大分市だなんて、大分県民ですら主張する人は少ないです。
たしかに近畿地方などの巨大遺跡古墳群を見たら、遺跡資源の少ない大分市は邪馬台国の名乗りを上げることすらできません。
しかし邪馬台国についての決定的証拠や確証がない現状、だれも真実を知りません。もしかしたら狗奴国にルーツをもつ天皇家だけは真実を知っているかもしれません。
大分市に邪馬壱国があり、はるか魏国の天子にまで、命がけで海を渡った大分の祖先を思うと、歴史のロマンを感じることができます。
豊(壱与)の国大分に思いを馳せて。