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奥豊後からの情報発信

大分市の古代からの成り立ち

大分市の魅力的な物語について、もっと知りたいと思ったことはないだろうか。大分市の近代的な歴史や文化については多くの人が知っていますが、その古代のルーツについてはあまり知られていません。この記事では、大分の黎明期とその時代を旅してみましょう。古代から近代までの大分の物語を学び、その文化的な過去の歴史的を明らかにします。準備はいいですか?時間をさかのぼりましょう。

大分市の初期の歴史を探る

大分市の歴史は長く、石器時代までさかのぼります。考古学的な証拠から、紀元前8000年頃には狩猟採集民がこの地域に住んでいたと考えられており、紀元前4000年頃に新石器革命が起こったと考えられている。

これは、狩猟採集を中心とした遊牧民の生活から、より定住的な農耕生活へと移行し始めた人類史上の重要なポイントである。

紀元前1千年頃には、大分県には弥生人が住み始め、石器や織物、土器などの高度な技術を持ち込んでいた。その後、紀元11世紀には藤原氏が渡来し、大分に城郭都市を築いた。

大分市の比類なき文化遺産の起源をたどる

大分市は、古くから文化遺産が多いことで知られている。

古くは3世紀~4世紀頃の有力者の墓である古墳が多く見つかっている。盗掘や荒廃によって歴史の解明は困難であるが、大きな歴史の動きがあったことは間違いないだろう。

大分市の都市開発のルーツを探る

大分市の都市開発のルーツは、徳川時代(1603-1868)の平和で安定した時代に、多くの町が形成されたことにある。大分市は、徳川幕府の南の城下町、商業港として栄えた。明治時代(1868-1912)、大分は初めて外国貿易に開放され、大規模な埋立事業や大規模な産業開発が行われ、急速に繁栄した都市に発展しました。この急成長は現代にも引き継がれ、現在では地域でも有数の製造業や観光の中心地となっています。

大分市の景観に隠された古くからの秘密を解き明かす

近代的なイメージのある大分市だが、その景観には多くの秘密が隠されている。市内には古道や寺社仏閣が点在し、過去の姿を垣間見ることができる。また、大分市には、先史時代、弥生時代、藤原時代の遺物や化石を豊富に収蔵する「大分県先哲資料館」があります。

おわりに

大分市は、石器時代から現代まで、何世紀にもわたって進化してきた歴史と文化の街である。その豊かな文化遺産は、世代を超えて受け継がれてきた多くの魅力的な物語を証明しています。次回の訪問の際には、ぜひ大分市の古い歴史を探索し、その景観に隠された秘密を探ってみてください。

耳川の大友家討伐の歴史

大友家が耳川で敗走した歴史が気になりませんか?もしそうなら、この記事を読んで、有力な大友家没落の裏にある魅力的なストーリーを学んでください。

この歴史的な戦いに至るまでの詳細と、関係する一族間の重要な関係性について説明します。さらに、この戦いが一族と日本の歴史に与えた長期的な影響についても説明します。

さあ、耳川の戦いで敗れた大友家についてもっと知ってください。

大友家とは・大友家の歴史

大伴氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代まで400年以上にわたって勢力を誇った日本の武家です。

姓は「村治」であったが、「八草の姓」の制定により「宿禰」と改称した。藩主は豊後国キリシタン大名、大友義鎮(大友宗麟)である。

耳川争奪戦の概要

耳川の戦いは、大友義鎮率いる大友氏軍と、島津義久率いる島津氏軍との対立です。

この争いは、西南日本に勢力を伸ばそうとする島津氏が、従来大友氏の土地であったところを領有したことに端を発します。

大友氏は降伏せず、1584年10月、耳川のほとりで戦いが勃発。

1584年10月、耳川のほとりで戦いが始まったが、島津氏の勢力は強大で、大友氏は決定的な敗北を喫したのです。

大友家敗走の結果

耳川の戦いの結果は、大友家にとって悲惨なものでした。

大友軍は完全に壊滅。さらに大友は島津に降伏し、領地を捨てることを余儀なくされ、九州における大友氏の400年の支配に終止符が打たれました。

この戦いは島津氏の力を実質的に強化し、この地域の政治情勢を一変させたのです。

耳川の戦いの遺産

耳川の戦いは、日本の歴史の大きな転換点でした。

大友氏の敗北は、400年にわたる大友氏の支配の終焉を意味するだけでなく、島津氏の権力と影響力がかつてないほど増大する時期の始まりでもありました。

また、かつて強大だった大友氏の衰退の始まりでもあり、日本の歴史から徐々に姿を消していくことになります。

耳川の戦いは日本史の大きな分岐点として、今日まで記憶されています。

まとめ

耳川の戦いは、ある藩の隆盛と別の藩の衰退を描いた魅力的な物語です。

この戦いは、大友家、島津家、そして日本の歴史的軌跡に大きな影響を与えました。

この戦いの歴史は、乗り越えられないと思われる困難に直面したときの決意と勇気の力を思い出させてくれる重要なものです。

大友宗麟はどのようなキリスト教国家を目指したのだろうか│九州六か国の覇王の壮大な夢

大友宗麟という九州の一大名が、九州にキリスト教の国を作ろうとしたことをご存知でしょうか?今回は、豊後の大友宗麟が目指したキリシタンの理想郷について書いてみたいと思います。彼の統治が日本に与えた影響や、彼が目指したユートピアの特徴について見ていきます。日本史や大友宗麟の影響に興味がある方は、ぜひ読み進めてください。

大友宗麟の紹介と九州の統治

大友宗麟は、日本の西域、豊後国(現在の大分県)を支配した大名である。在位は1561年から1586年まで。1561年から1586年まで在位し、「豊後国王」と呼ばれ、キリスト教を導入し、キリスト教国の設立に尽力しました。しかし、結局は実現しませんでした。

大友家ユートピアの特徴

大友宗麟は、儒教、仏教、キリスト教を融合させたユートピアを構想。儒教と仏教を基調とし、法と秩序を重んじた政治を行うことを基本としています。豊後国王をもとに、人々は儒教キリスト教を融合させたものを実践。

大友宗麟は、このキリスト教の理想郷において、キリスト教と他の信仰体系との境界線を曖昧にすることで、人々の間にキリスト教を広めることを目指しました。大友は、仏教とキリスト教の両方の教えを守りながら、儒教の思想も取り入れるよう民衆に勧める。また、この地域にキリスト教を広めるために、教会を建てることを望んだのです。

大友宗麟の支配が日本に与えた影響

大友宗麟の努力は、日本におけるキリスト教の発展に大きな影響を与えました。大友の治世は、キリスト教国の成立には至りませんでしたが、その遺志は継承されています。彼はキリスト教をこの地域に導入し、宗教的寛容を促進する役割を果たす。彼の努力は、日本におけるキリスト教の成長と受容に貢献し、彼の行動は日本全国へのキリスト教の普及に影響を及ぼしたといえるでしょう。

【まとめ】大友宗麟の目指したキリスト教国家は達成されたのか?

大友宗麟キリスト教国家の樹立に失敗しましたが、彼の遺志は今なお受け継がれています。儒教、仏教、キリスト教を融合させたユートピアという彼のビジョンは、多くの人々の心の中に生き続け、彼の努力は日本におけるキリスト教の普及と受容に影響を及ぼしたのです。彼の治世は印象深く、キリスト教国の夢は完全には実現しなかったが、彼の努力は日本全国にキリスト教を普及させる上で大きな力となりました。

【邪馬壱国は大分市】騙され・隠され続けたのは訳があったPart②邪馬台国の真実

邪馬台国(邪馬壱国)は、魏志倭人伝を読み解くと大分市であることがわかります。

しかしなぜこの現代までに、邪馬台国への道をたどるのがこれほど困難になったのでしょうか。

それは国家権力によって改ざん・証拠隠滅がなされ、邪馬壱国(大分市)が破壊されたからです。

真実を突き止めるのがタブー化されたような状態になっていますが、本当の歴史を解き明かします。

アイキャッチ画像:十文字原はら別府湾を望む(筆者撮影)

邪馬台国大分市】Part①はこちらです。

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  • 邪馬壱国の宿敵「狗奴国」はどこ?
  • 狗奴国に徹底的に滅ぼされた邪馬壱国
  • 邪馬壱国を何が何でも隠さなければいけなかった
  • 架空の国「熊襲国」討伐過程での地名の大幅変更
  • やまい」は「おおいた」に変更された?
  • 記録からも記憶からも消し去られた都市邪馬壱国のロマン
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【邪馬台国は大分市】騙され・隠され続けたのは訳があったPart①なぜ「邪馬壱国」は見つからない?

画像

邪馬台国論争って昔、そうとう流行ったらしいですね。
畿内九州説?という激論が交わされていました。
邪馬台国の場所は現在も断定できていないのが現状です。


魏志倭人伝では、邪馬台国7万戸を有する大都市
親魏倭王」と称された卑弥呼の記載があります。


三国志の世界的大国魏から倭王と称された邪馬台国
なぜ日本の歴史から跡形もなく消えたのでしょうか。
それは日本の皇族にとって触れてはいけない
隠さなければいけないことだったんです...

アイキャッチ引用元:大分市Twitter

【目次】

 

そもそも邪馬台国ではなく「邪馬壱国」

魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝

魏志倭人伝には邪馬台国という記載はありません
正しくは「邪馬壱国」です。


昔の漢字で台は「臺」、壱は「壹」
この2字は似ていることから、壱は台の誤字だ!という
一部の学術から広まって一般に邪馬台国となったようです。

 

魏志倭人伝の作者「陳寿」が書いた原本は存在せず、写本だけが現存します。
忠実に写本された魏志倭人伝で誤写があったのでしょうか。
ちなみに魏志倭人伝はものすごく長い文章ですが、
壱を台と誤写している箇所などないのです。

 

陳寿は「邪馬壱(壹)国」と記述していたと考えるべきでしょう。
この漢字を通常通り読んだら「やまいこく」と読めます。
ですから「やまたいこく」ではなく「やまいこく(やまいちこく)」が正しいです。

 

なぜこうも無理やり邪馬壱国を邪馬台国としたのか。
またそれが一般的に広まってしまったのか。
なんだかヤマト政権と邪馬台国がごっちゃになってしまいません?
実は邪馬壱国ではいけない理由があったんです...

 

ヤマト政権は邪馬台国ではない

引用:ヤマト王権ウィキペディア

ヤマト政権と邪馬台国全くの別物です。


ヤマト政権は奈良盆地に王朝を築き日本を統一したとされる、今の天皇家に脈々と受け継がれる国家です。
一方邪馬台国は3世紀に女王を擁して統一された独立国で、隣接する敵国「狗奴国」との仲裁を魏に申し入れています。

 

日本の重要歴史書記紀」では3世紀には天皇家国家統一しています。
ヤマト政権が日本を統一しているのであれば、海を渡ってはるばる魏に内乱の仲裁を頼む必要がありません。

 

魏志倭人伝では、3世紀ごろまだ日本では小国同士の争いが絶えず、いわゆる「倭国大乱」の時代だったとされています。
一つの政権で統一されておらず、攻防を繰り返していたといえるでしょう。
中国の正史と記紀では矛盾が生じているようです。

 

邪馬壱国は数ある倭の一国にすぎない

引用元:世界の歴史まっぷ

魏志倭人伝では、漢の時代から倭から100国の朝貢があり、魏にも30国ほど通ずる国があるということが書かれています。
数ある朝貢国の一国が邪馬壱国だったのです。

 

日本は統一されていなかったけど、魏の皇帝に海を越えて使者が赴き、奴隷や財宝をたらふく貢いだことで、「倭王」の称号を与えられただけだったんじゃないでしょうか。
魏に忠義のある倭王というだけで、日本の統一国家としての倭王ではないです。
魏も結局滅んでしまったので、親魏倭王とはなんの肩書にもなりませんでした。

 

女王が鬼道を用いて国を治め、中国の正史にも登場する邪馬壱国。

それは神格化されて、いかにも神秘の大国と感じている方も多いですが、魏まで出向いて助けを求め、媚びへつらう卑しい国が邪馬壱国です。

 

邪馬台国、いや邪馬壱国に直接つながる遺跡や女王卑弥呼の墓は
見つかっていますか?何一つ見つかっていません。
魏から倭王と称された邪馬壱国ですが、跡形もなく消え去ってしまう。そんな日本の一地方国だったのではないでしょうか。

 

九州説しかありえない【邪馬壱国は大分市

(写真:大分市庄の原 蓬莱山古墳)

 

邪馬壱国は畿内ではなく、九州の大分市です。
ウソでも本当でもなく大分市です。私は信じています。
場所は決まっていないので、個人で断言しても問題ありません

 

畿内説はありえない

まずは魏志倭人伝の邪馬壱国までの道程の説明で
方角、日数、行程の全てにおいて畿内には行きつきません。
「南は東のこと」「里数が違う」とか魏志倭人伝をまるで信用していない考えです。
どうしても邪馬台=ヤマトと結び付けたいのでしょう。

 

魏志倭人伝は邪馬壱国までの道のりを正確に記載しています!
朝鮮半島から対馬壱岐に至るまで正確に記載されており、九州北部の末廬国に到着して邪馬壱国までの道のりが始まります。

 

壱岐対馬までは魏志倭人伝でわかるとして、あとの道のりの解明は困難を極めます。
それは現在の地名とは結び付けがたい国名が羅列されており、途中の場所を比定するのが難しいからです。

 

【末廬国から邪馬壱国まで】

末廬国→伊都国→奴国→不弥国→投馬国→邪馬壱国

 

この難解な行程の解説は長くなるので割愛しますが、九州北部から南東方向へ進んでいるのは間違いありません。

 

邪馬壱国が大分市である所以

では魏志倭人伝の邪馬壱国の地理的条件を見てみましょう。

「女王国の東、海を渡ること千余里にして、また国あり。皆倭種なり」
「七万余戸ばかりあり」


実は九州でこの条件を満たすところは大分市のみなんです。

引用:Googleマップ

この二つの条件から邪馬壱国についてわかること


東海岸に面している
東の海を渡ると、倭人の国がある
七万戸以上ある開けた場所

 

九州の東海岸で、東に海を渡ると日本人の国がある。

3世紀に七万戸の都市ということは、今でも大きな都市であるでしょう。

九州の東海岸にある大分市は、東に四国があり、現在47万人規模の都市です。

 

今の宮崎、日向国邪馬台国候補地ですが、東の海に倭人の国はありません。

まとめ【邪馬壱国は大分市魏志倭人伝は正確だった

 

  • 邪馬台国ではなく正しくは邪馬壱国
  • ヤマト政権=邪馬台国ではない
  • 邪馬壱国は魏に朝貢する一国にすぎない
  • 邪馬壱国は九州にしか存在しない
  • 地理的条件をクリアするのは大分市のみ

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