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鬼に金棒を地でいった戦国時代の武将「真壁氏幹」│信念を貫き通す誠の男

戦国時代、多くの武将がその名を歴史に刻みましたが、その中でも特に異彩を放つ「鬼武将」がいました。彼の名は「真壁氏幹(まかべうじもと)」。その生涯は信念と武勇に満ち、彼の物語は今なお語り継がれています。

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幼少期と剣術修行

武勇に優れた父のもとで育つ

真壁氏幹は1550年、常陸国(現在の茨城県)に生まれました。父・真壁久幹もまた「鬼真壁」と呼ばれるほどの武勇の持ち主で、その影響を受けた氏幹は幼少期から剣術修行に励みました。

塚原卜伝との出会い

幼少期の氏幹は、父の手ほどきを受けるだけでなく、当代一流の剣豪・塚原卜伝からも剣術を学びました。厳しい修行を通じて彼の剣術は磨かれ、その才能は次第に開花していきました。

霞流棒術の創始

剣術から棒術への転身

氏幹は剣術だけでなく、巨大な棒を駆使する「霞流棒術」を創始しました。この棒術は、長さ3メートル、周囲24センチの赤樫の棒に鉄製の鋲を打ち付けた恐るべき武器を使うもので、彼はこの武器を自在に操り、戦場で無敵の強さを発揮しました。

家督を継ぎ真壁城主に

永禄年間(1558~1569年)、氏幹は家督を継ぎ、真壁城主となりました。その武勇はさらに際立ち、近隣諸国を震撼させました。彼の戦場での活躍は「鬼に金棒」という言葉を地で行くものでした。

戦場での勇猛さ

敵軍を蹴散らす姿

戦場での氏幹は、巨大な棒を振り回し、敵を次々となぎ倒す姿がまさに鬼そのものでした。その圧倒的な強さは、周囲の武将たちからも一目置かれる存在となりました。

斎藤伝鬼房との対立

一方で、同じく塚原卜伝から剣術を学んだ斎藤伝鬼房との対立も彼の人生に影を落としました。弟子が斎藤伝鬼房に敗れたことから始まった対立は、氏幹の評判を一時的に下げる結果となりましたが、その一方で彼の武勇と信念は変わることなく、彼の名は広く知られるようになりました。

戦略家としての一面

佐竹氏との絶妙な同盟関係

氏幹は単なる武勇の持ち主ではなく、戦略家としての一面も持ち合わせていました。佐竹氏に従属しながらも独立勢力としての地位を守り続け、戦場での戦略を駆使して数々の勝利を収めました。

鉄砲の使用と最新技術への適応

また、彼は最新鋭の武器である鉄砲にも着目し、戦場での戦術に取り入れました。1569年の手這坂の戦いでは、鉄砲を駆使して佐竹氏を勝利に導くなど、柔軟な戦略を持って敵を圧倒しました。

信念を貫き通す男

独立心と正義感

氏幹は非常に独立心が強く、正義感に溢れた人物でした。織田信長武田勝頼を滅ぼした際には、佐竹氏を無視して独断で織田氏を糾弾する使者を送るなど、自分が正しいと信じる道を貫き通しました。

最後まで常陸国を守り抜く

1590年、豊臣秀吉による小田原の役が起こり、佐竹氏が秋田へ移封されることになりましたが、氏幹は常陸国に留まり続けました。彼の生涯は、武勇と信念に満ちたものであり、その名は今なお歴史に刻まれています。

終わりに

真壁氏幹の物語は、武勇と信念を持ち続けた一人の男の生涯を描いたものです。彼の生きざまは、戦国時代の激動の中で確固たる信念を貫いた誠の男として、多くの人々に影響を与え続けています。その名は今後も語り継がれていくことでしょう。